日本アーサー株式会社


 今回は,アーサー・フォノブック,テイチク・フォノ・グラフの製造,発行元である日本アーサー,その母体となった日本アーサー・レコード,および,多数の貴重な録音で知られる日本レコード(のちニッポンレコード)の創業者,社長である紀本仁作様にお話を伺いました.


 
 

1.創業(35年6月)の経緯をお聞かせ下さい

 直接にはやはり朝日ソノラマの影響ですが,他に2つほど背景がありました.
 当時私は天王寺区の舟橋町で鶴橋松竹と鶴橋東宝という劇場を経営しており,その裏にも3階建てのレジャービルのようなものがあり,これが日本アーサー・レコードの本社,工場になるわけですが,そのビルで何か新しい事業を始めようと考えていたのがまず一点です.
 もう一点は私の素地というべきかも知れませんが,その劇場の北側は紀本電子工業という会社で,今は環境計測機器のメーカーとして大きくなっていますが,これも私と兄との創立なんです.つまり,元々は私も電気屋でして「電気が好き,音が好き,レコードを聴くのも好き」といったことで,今でも楽器をやるくらいですので,当時から音の出るもの,レコード産業には少なからず興味を持っていたわけです.
 そんな折にソノシートを目にしまして「これは」という思いから,早速油圧式のプレス機を購入し,その映画館の映写技師さんたちと相談しながら,いろいろと改造して,加熱・プレス・冷却といった工程を作り始めたわけです.しかし最初はなかなか良い音の出るものが出来なくて苦労しました.
 

2.技術スタッフ

 やはりその劇場の映写技師で,後に東京電化へ行って成功されたM君というのが途中から加わるんですが,この人はいろいろとアイデアのある男で,吹込みから製造まで実に良い仕事をしてくれました.それともう一人がO君.彼も東京電化が作った記録媒体の会社,今はCDのインジェクションマシンですが,そこの社長をやっていました.みんなうちの出身ですね.そういったことで技術的な部分は「音が好き,機械が好き,電気が好き」という人たちが,映写技師の仕事と並行して半分はアルバイト的にやっていたわけです.
 

3.シートの材料と原盤

 材料は幅30cmくらいのをロールに巻いたもので,色もいろいろとあり,旭化成などに注文していました.
 原盤の製造は殆どがテイチクです.最初の「映画とヒット曲集」シリーズのときもテイチクに依頼したはずです.関西では奈良のテイチクか西宮のマーキュリー,ただマーキュリーは殆ど倒産しかけで駄目だったと思います.またテイチクのスケジュールが合わないときなどは,東京へ持って行ったこともあります.東京にはカッティング屋さんがあり,マザーいくら,スタンパーいくらでと請け負ってくれたんです.ですから原盤については外注です.それも自社でやろうと研究したんですがなかなか難しくて.日本レコードになってからは勿論やりましたが.
 

4.フォノカード

 当時はラミネート盤と呼んでいました.硬質ビニールを貼り付けた厚紙に音溝をプレスしたもので,製造工程としてもカードは1枚ずつですがプレスはシートと同じですから,同時期の仕事と見ていいでしょう.
 こうしたカードの用途はといえば宣伝物です.ただし音が悪い.ラミネートしてもやはり紙の分子の影響でどうしてもノイズが入るわけです.それでも電通さんなどの依頼で大量に作ったのもあります.電通さんは良いスタジオをお持ちで,そこで作られたものを持ち込まれるんですが,カードにしてしまうとね….しかし下地には商品の写真や絵が印刷されてますから,見ても聞いても楽しめますし,比較的安価ということで,一時期少し流行して,大型葉書大のも作りました.
 

5.社名の由来

 とくに意味はないんです(笑).あっさりした名前,覚えやすい名前ということで付けたのが「日本アーサー・レコード」です.
 次の「日本アーサー」というのは,今はどうか判りませんが,当時,JASRACに登録するときに,レコード会社自身が出版権を持つわけにはいかないので,出版部を別会社として持ちなさいという指示がありまして,それで同じような名前の会社を作り,結局はそれ一つにまとめてしまったということです.
 

6.東京事務所

 テイチク・フォノ・グラフを始めた頃から,東京にも事務所が必要になり,当時の中央区の築地会館,1階にはテイチクの東京営業所,隣にキングレコードの東京営業所もありましたが,そのビルに,アーサーの東京事務所,S君というのが所長・編集長ということで,企画・編集部を設置しました.ただあくまでも本社は大阪ですから,編集部は出先になるんですが,裕次郎へのインタビューにせよ,平凡から記事をもらってくるにせよ,その都度東京へ出張していたのでは間に合いませんから,編集長はそちらに駐在していたわけです.
 また東京で大分印刷しました.最初は大阪で印刷していたんですが,東京の印刷会社の方が安いということで,東京事務所で手配するようになり,そのときもプレスは大阪,ブックは東京.出来上がったシートをこちらから送って印刷・製本屋さんで詰めてもらう,それを東販,日販,大阪屋などの分に分けて東京から配達といった具合でした.
 

7.レコード店へのシートの流通

 これはレコードの卸屋さんからです.当時は「レコード七掛け」といいまして,メーカー直の場合,売上の3割が小売屋さん,7割がメーカーに入ったわけです.一方,卸に出した場合,1割程メーカーの分から卸に行くんですが,メーカー直では,極端な話,1枚でも注文が入ると納品が必要ですからメーカーとしても大変なわけです.そんなこともあって卸を使いたいという意向が高まり,卸屋さんが若い子を使って小売屋さんをまわらせて,活発に動き出した時期だったんです.
 アーサー・フォノブックも,レコード店へは,大阪ではライラック商事さんと越野商会(現在のキープ)さん,東京では飯原星光堂さんから行っていました.
 

8.「映画とヒット曲集」シリーズ(36年8月〜12月)

 映画の資料はユナイト映画,ユニバーサル映画などの関西支社でもらってきました.この頃はどこの映画会社,配給会社にも活気があり,こういった資料,宣材も積極的に提供していた時代です.編集は確かテイチクの人も手伝ってくれまして,DECCAの広告もテイチクの繋がりです.
 第3集のステレオは画期的だったと思います.音がきちんと左右に分離されるように苦労しました.ただこの歌手はその辺りから連れて来たような人なんで….やはりこういった点が耳のある人には難しかったんでしょう.
 

9.「夢のハワイアン集」(37年6月),「日本八大民謡」(同年9月)までの空白

 続けて出してないというのは,厳しかったんだと思います.返品が多くて,次出せるか…と.まぁ単行本ですから,定期刊行物じゃないんで,何か良いネタがあれば出そうというスタンスですね.
 この「日本八大民謡」はバッキー白片さんです.これはまだテイチク・フォノ・グラフのない時期で,夏向けの企画ということもあり,専属のバッキーさんの音源を使わせてほしいとテイチクにお願いしたわけです.この辺りから徐々にテイチクと仲良くなって,テイチク・フォノ・グラフに移行していったように記憶します.
 

10.テイチク・フォノ・グラフの創刊

 「赤いハンカチ」(37年10月新譜)が大ヒットで,これを頭にテイチクもシート出版に参入しようということで,テイチクのほうから話があり.当時の南口豊治社長もアーサーのシートを認めてくれてまして,音質も良いし,ソノラマにも負けないと.実際どんと売れて,重版重版,シリーズ化となるわけです.
 

11.発行部数の決定

 これは重要なポイントでした.テイチク・フォノ・グラフの場合,向こうとの合議で,テイチクはレコード店中心におき,アーサーは東販,日販を通じて書店におくと.また部数については単価的に半々で,つまり,音源のライセンス料をテイチクに商品で収める形で行こうと,そう決めたわけです.書店とレコード店で同じくらいの売れ行きだろうという考えで.
 ところが本はレコードと違って返品自由でしょう.レコード店では売れても書店では売れないような企画もあり,かなり厳しい面も出てきたんです.予想外の数が返って来まして,その3階建てのビルにあった倉庫へ詰めていって,映画館の事務所の奥にも積み上げたりして,最後は破棄しました.ですから当時いろんなところがシートを出していましたが,実際には返品が多くてそれ程売れていないように思いますよ.
 

12.誌面・記事

 こういう私の署名がある記事も東京事務所のS君が書いたものだと思います.この人もあとで大手の出版社で成功されまして,いまだに付き合いがありますが,元々はレコード業界誌のレコード特信出版社(当時は総合芸能通信社)にいた人です.そんな縁で私もそこの齋藤幸雄社長,今の会長さんと付き合うようになり,62年にそこの関西支局長になったんです.
 それと大阪でも,テイチクで意匠課長か係長かをしておられた方で,日本レコード出発のときにテイチクを辞めてこちらへ来られたのがIさん,今のM書店,楽譜などの,あそこの会長さんです.あの方たちの時代ですね.
 

13.音源

 今お話している部屋の下に十畳ぐらいの部屋がありまして,そこが一時期スタジオだったんです.ニッポンレコードも一緒にやっていましたから,柳家三亀松さん,ミヤコ蝶々さん,偉い方が大勢お見えになりました.スタッフは先程お話したM君が,録音技師兼,ミキサー兼,ディレクターで,プロデューサーはどちらかというと私と,レコードになってからは今有名になっているようなのが二人いました.
 そういった自社録音とは別に,例えば西田佐知子の大ヒット「アカシヤの雨がやむとき」.これを中心にフォノシートを作ろうと,これは私のアイデアで,グラモフォンに原盤供給の打診をしまして,マーキュリーレコードの文芸部長からグラモフォンの制作部長になったKさんだったと思います.その方に話を通して,私も挨拶などで東京へ行き,グラモフォンのスタジオで西田佐知子と作曲,作詞家を対談させまして,それを編集してフォノシートに収録すると,そういった企画もやってるんです.シートにはレコードにないニュース性とか社会性を持たせていこうという面もあったわけです.この「アカシヤの雨…」は大ヒットでしたから沢山刷りました.ただし独占契約ではなかったので,他の版元からもこの曲の入ったシートが出ていますが,恐らくうちが一番早かったと思いますよ.第2集はあまり売れませんでしたが(笑).
 他には出版社関係から音源だけを購入したケースがあります.曲を輸入している人は,大抵音楽出版社やプロダクションを持っておられて,例えば渡辺プロなら渡辺音楽出版のようにね.外国のヒット曲などはそういったところが代理店になりますから,そこからヒットしているものを買ってくるわけです.シートの場合,やはりオリジナリティーからというのは無理で,レコードでいえばシングル盤ではなく,あくまでもアルバム的な考え方で,ヒット曲を目を皿のように探すといった形でした.
 テイチク・フォノ・グラフはすべてテイチクの音源ですが,この場合もレコードとして何万枚以上売れたようなヒット曲,ヒットアーティストのものを選んで出していたわけです.ただ例えば「裕ちゃんとたのしく」なら,第1集には「赤いハンカチ」という大ヒット曲があり,2集,3集まで行ってもそれぞれに目玉があって大丈夫ですが,2番手さんとなればもうちょっと厳しくて….今は大スターですが,この高橋秀樹さんの「ナイス・ガイ高橋英樹とともに」などはあまり売れませんでしたね.日活の若手スターということで,ヒット曲はなくてもバリューでいけると思ったんですが.
 

14.日本レコードの誕生(38年

 テイチクとそういった具合に親しくなって,資本的には完全に独立していましたが,向こうの古いプレス機を自動の新型に替えるときに,古い機械もまだ十分使えるから,紀本さんのところでこれを使ってレコード会社をやらないかと,当時の南口社長がえらく勧めてくれまして,いろいろと協力もするからと….そこまで社長が言って下さるなら,ということで出来たのが「日本レコード」です.
 

15.ニッポンレコードの足跡

「MARIANO IN WEST SIDE」(NS−1001)
 これは有名なジャズの敏子・マリアーノ.確かご本人にお会いしてレコードを出したいと交渉したんです.フェスティバルホールには良い録音機がありまして,そこでのライブ録音です.
「魅惑のサキソフォン」(NS−1002)
 サキソフォンの大家.これは我が映画館で録音したものだと思います,夜中にね.あの大ヒットした「釜ヶ崎人情」(NP−102),あれもうちの映画館で,バンドを舞台に上げて録ったんです.
「日本の歌」(N−501)
 当時の歌曲の大御所,四家文子さんのなどが入っていまして,これはスタジオを借りました.
「旅情」(N−1001)
 「別れ船」の作曲者の倉若靖生メロディ.これは倉若先生が録音されたテープを買い取ってくれということで,それをレコードにしたものです.
「民謡・河内音頭」(N−1002)
 河内音頭はこの下のスタジオで録りました.太鼓などを持ち込みましてね.
 また,歌謡曲・歌手部門として,当時松竹映画のトップ美人女優で歌の才能もある香山美子に専属料を拂い入社して貰いまして,彼女は道頓堀浪速座で行ったニッポンレコードヒットパレードのトリを務めてくれました.
 

16.自社工場

 日本レコードではメッキからプレスまでやりました,東成区の玉造に工場を作りまして,プレスのガス圧を上げるのに大きなタンクを作ったり….今思えば下請けにまわせば良さそうなものですが,当時はプレス工場がどこも満杯で,それなら自分のところで作ろうか,作るのが自分たちの本職だとか言い出しまして,それで工場から作ったわけです.
 またテイチクの天下り先という面もあったんです.工場長ですとか定年くらいの方を,社長などから,機械もうちのを安く使えばいいし,人も世話するとか言われまして.まぁ仲良くしていましたから貢献できたことは良いことだと思います.とは言え,やはり工場を作ったのは当時負担が大き過ぎましたね.
 

17.テイチク・フォノ・グラフのTP−24(39年7月)からはテイチクが制作

 これはテイチクの特販係長,尾崎三徳さんという方で,社長の娘婿さんですが,やはり制作に意欲を持ち出された面もあったと思いますし,商売としての見通しも立ってきたので,これをやっても大丈夫だと.それでその方が特販部の部長に昇格されて,最後は専務まで行かれました.そういった関係です.
 テイチクとはずっと仲良くしていましたし,既に日本レコードを始めていたこともあって,自社制作の話が来たときもとくに揉めることはありませんでした.大手はそういうのが多いでしょう.吸収合併してしまうか,自分のところでやるか.吸収合併されても構わないような気持ちなら,テイチクの一部門になったかも知れませんが,それは考えませんでした.
 

18.ニッポンレコードのその後

 最後は,テイチクに工場を止める旨申し入れて,それと同時に少し話し合いがあり,うちで企画したレコードを,歌謡曲中心に,吹込みもやって,月に1枚2枚でもいいので提出してくれと,新譜としてテイチクから全国発売するからと,そういう契約を結んだんです.これは大変な契約だったと思います.一応新譜試聴会はあるが,出したものはみんな通るというような形で.
 それで制作の場を東京に移し,飛行館スタジオとか,渡辺プロの系統のスタジオ,ああいったところを借りて,新人さんを中心にいろいろとやったわけです.テイチクのシングル盤のジャケットに「制作ニッポンレコード」と入っていました.
 ただやはり制作費が嵩みまして,その割りに売れないんで難しい.歌謡曲のヒットはそう簡単に出せるものではありませんから,既に売れている曲をフォノシートにするのとはわけが違います(笑).それで結局,レコードは厳しいなということになり,制作活動も停止したんです.
 

19.フォノシート出版を振り返って

 手頃な音楽媒体という役どころは次のテープに奪われたわけです.エイト・トラックが出て,本との組み合わせでも,あとはカセットになりましたし,以後,CD,DVDに….
 ただ技術革新によってフォノシートが現れた当時は,まさに画期的なものでしたから,そういったものに逸早く手を付けられたことは,幸運だったと思っています.