1.ご入社は
小生は61年春、公募した社員の第一号として入社しました。24歳でした。最初は「月刊朝日ソノラマ」の編集部にいましたが、63年の春頃に課長一人に小生が一人だけの窓際セクションに配置転換になりました。当時の編集部は「月刊朝日ソノラマ」を担当するセクションと映画音楽や「みんなのうた」などを担当するセクションと課長と小生だけのセクションの三つに分かれていました。小生のいたところは何の仕事もなかったところです。
2.当時の社の概要をお聞かせ下さい
社員は百人足らずでしたが、7〜8割は本社からの出向者と朝日新聞関係の子弟でした。残りは放送局や音楽界、映画界からの転職組で、その頃は朝日放送からの出向者はいなかったと記憶しています。
専務の本多氏は、大戦末期に起こった有名な横浜事件の取材ではデスクをつとめた有名な辣腕記者でした。井沢氏(初代編集部長)は映画記者としてピカ1の有名記者で、彼は「プロデューサー」という肩書の名刺をもっぱら使っていました。
メインのスタジオというのはなく飛行館やアバコやアオイなどを使うことが多かったと思います。朝日放送の支社には音楽録り用の大きな1スタとナレーション録りなどに用いる小スタジオが二つありましたが、ミキサーが放送録音が専門であり
こちらの思い通りの録音ができなく、また夜間の使用を嫌がっていたので
外のスタジオを使うことが多かったのです。朝日放送のスタジオを使用する際はきちんと使用料を払っていました。
朝日ソノプレス社は当初から赤字経営で累積したかなりの赤字は本社からの
借り入れでやりくりしていました。もしアニソンの一連のメガヒットがなければ
他のソノシート会社と同様に確実に倒産したに違いありません。
3.国産TVまんがソノシート第一号「鉄腕アトム」
アトムは63年1月1日から放映が始まりましたが
最初はメロだけで歌詞はありませんでした。10話目前後から歌詞がついたのです。
ソノラマのアトムが出たのは同年の12月になりますが、たまたまあるミュージシャンからかつて赤胴鈴之助のレコードが売れに売れまくったと聞き虫プロを訪ねたのがそもそもの始まりだったのです。
すさまじいばかりの売れ行きで
これが小生が一本立ちした最初の仕事になりますが
文字通りのビギナーズラックだったのかもしれません。
キャラビ社長が公式の場で再度120万部を突破したと語っていますが
比較的正確な水増しのない数字だと思います。増刷は最初は1万とか1万5千でしたが
後には2万、3万と増刷していきました。なお、それまでのレコードの最高発売枚数は
「君の名は」の135万枚です。
4.「鉄人」そして「エイトマン」
アトムの大ヒットを受けてさっそく鉄人に着手しました。
音楽界の重鎮である三木鶏郎との交渉になりましたが、
歌中の「グリコ、グリコ・・・」を外す外さないで紛糾。
外してもらうために大変苦労しました。
鉄人は実感としてアトムより売れたような気がしています。
何といっても地方で強かったからです。
つぎに「エイトマン」に取り掛かりましたが、ここでも作曲の萩原哲昌と歌手の克美しげるは渡辺プロの所属で
さらに克美は東芝の専属だったので
そのとてつもない難関というか障壁がガーンと立ちはだかっていたのです。
常識的にはそれを突破するのは100%不可能だったのです。
そこを若さの勢いで一気呵成に突破したわけですが
エイトマンもミリオンセラーに近いほど売れました。
(帯でも「テレビと同じ克美しげる(東芝)の8[エイト]マン主題歌」と強調されていた)
小生がたった一人で多忙をきわめたため
途中から村山(村山実.64年入社.後の朝日ソノラマ編集長)が入社し
東映動画などを担当するようになりました。
5.独占契約
会社は11時出勤で
いつも10時半には隣の喫茶店でコーヒーを飲んでいましたが
その頃からレコード会社の連中が橋本詣でをするようになったのです。
当時、アニソンの権利関係の契約書を保管管理する部署が会社にはなく
すべて小生のファイルに閉じ込み自分のロッカーに入れていました。
そのようなこともあって各レコード会社は橋本さえ口説き落とせば
うちでもアニソンが出せると
すさまじいまでの攻勢をかけてきました。
金額が空欄の小切手が目の前をたびたびちらつくほどだったのです。
しかし、一切誘惑や買収には応じませんでした。それをすると
その後の仕事に何らかの悪影響が出るからです。
麻雀やゴルフの付き合いも拒否しました。
どちらもできなかったからです。
6.その後
アニソンのソノシートは順風満帆で
やがてオバQ音頭の200万部というダブルミリオンを叩き出します。
66年11月からはアニソンのソノシートと並行して
サン・コミックという新書版のコミック・シリーズを創刊しました。
それがソノシートがなくなってからのソノラマを支えたコミック路線になって
いきます。
サン・コミックのなかで小生が出した永島慎二の『漫画家残酷物語』はコミック界に一大旋風を巻き起こしました。それによってコミック界がガラリと変わったのです。
そのようないろいろなことがあって
小生は68年12月に退職しました。
ソノシートというメディアをどのように扱っていいのか皆目見当がつかなかったのが
アニソンによってはじめて存在意義が鮮明になったといってもいいのではないかと思っています。
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