現代芸術社の創設者,編集(一部を除く)兼発行人である長嶋武彦様に,会社設立の経緯,沿革などをご教示頂きました.
私がいろいろな人たちと現代芸術協会という(五七年末)ものを作り、雑誌「テレビドラマ」というものを月刊でだし、中野に「テレビドラマ研究所」というものを作り、テレビドラマの教室ですが、いろいろ、例えば岡本愛彦、とか佐分利信とか沢山の人たちを講師にして、研究生の教育機構を作っていました。同時に出版社ですから、そこで、世界民謡の音楽集をフォノシートでだしました。 それが六〇年の五月です。 |
|
大変よく売れたので、六〇年一〇月一日、現代芸術協会をやめ新宿西口にフォノシート(当時はソノシートと云っていました。朝日ソノラマがソノシートを商標登録したのでフォノシートになりました。)出版をはじめました。三名ではじめたのです。 SONO-JOURNAL1.「最新映画音楽集」と「山岳歌曲集」です。余りに良く売れたので次々に出版しました。社内の仕事が間に合わないので四谷に移り社員も増えました。最初の出版は六〇年十二月です。それから数限りなく出版しました。年末また手狭になり千代田区に移りました。その頃、社内社員は十五、六名ぐらいでした。翌々年六三年新宿区左門町に移り社員も三十名を超えていたと思います。直接お客への通信販売もやりました。 |
|
しかし、六五年頃から、フォノシートにかげりがでてきました。大きくなった世帯を維持するために、いろいろなものを出しました。六七年六月の終りに「少年現代」というマンガ雑誌を出版しました。テレビの連続マンガをそのマンガ家本人に更にその話の展開として描いてもらった。大変な売れ行きで、外の月刊マンガ誌(当時週刊はなかった)を圧倒しました。 ところが二号配本して、取次店最大手(図書問屋)東販に集金に行ったとき驚きました。現代芸術への支払が止められているのです。「支払停止」何ごと。 東販も日販も、大株主は既成大出版社だったのです。出版社は東日販の課長人事にまで口を入れていました。 経営不能、倒産、朝日、毎日、読売の三大新聞の三面に、二段、三段で報導されました。 |
|
その当時、左門町だけでは足りなくなり、麹町にも事務所がありました。左門町を引き払い、麹町に数名の残った社員たちと、芸術出版の名前で仕事をしました。そのご、七〇年に頼まれて木馬座(児童演劇)の社長になり、その木馬座の中で、現代芸術は細々とつづいていました。 |
|
長嶋武彦
|