株式会社勁文社


 今回は,勁文社において,その黎明期より編集部主任,営業部販売課長,営業部長,常務,専務取締役を歴任された小此木二郎様に,社の概要,業務の実際,企画の特徴などをご案内頂きました.


 
 

1.変遷

 私が勁文社に在職していた昭和35年から昭和55年までを三期に分けて企画の変遷を振り返って見ると、第一期がフォノシート出版でスタートし、時流に乗った上に、幸運と努力で企画にも恵まれ、業績も順調に推移した昭和42年頃までであったが、その後フォノシートの市場性が徐々に薄れ衰退していった。

 その頃、新たな媒体として脚光を浴びてきたのが、いわゆるカーステレオテープであった。アメリカで開発されたカーステレオテープを日本に持ち込んだのは、ニッポン放送の子会社であったニッポン放送サービス(現ポニーキャニオン)であったが、ここがテープを発売するにあたって、後述するように、我々がフォノシートの音源確保に苦労したのと同様の問題を抱えることになる。勁文社はポピュラー音楽を中心に自社録音した音源を持っていたので、ニッポン放送サービスからの申し出があり音源を貸し出すことになり、それがきっかけで勁文社もカーステレオテープに参入することになった。

 しかし、カーステレオテープはフォノシートと違って大きな市場になると見込まれていたのでレコード会社も早い時期に参入して来た。先行したニッポン放送サービス(ポニー)は一時期市場を席巻したが、徐々に音源の豊富なレコード会社にシェアを奪われ苦戦することになる。勁文社はフォノシート時代の音源を活用して企画を立てていた訳だが限度があり、ならばと暗黙の価格協定を破って低価格路線をとり物議を醸したこともあった。しかし、レコード会社が、保有する豊富な音源を投入して参入してくれば苦戦するのは目に見えていた。この時期が勁文社にとっての第二期で、先細りのテープに加えいくつかの出版物も発売したが、いずれも鳴かず飛ばずで、業績は最低の状態が続いていった。

 転機となるのは昭和46年12月に発売した『原色怪獣怪人大百科』で、これが当時としては画期的な53万部を完売し、勁文社にとってはまさに起死回生、一発逆転の大ヒットとなった。ここからが第三期といえる。その後、大百科をシリーズ化し、年間二百数十万部以上を販売、総販売額に占める再版比率が高く返品率が低い、収益性の高い会社へと発展し、出版業界の中で認知されるようになっていった。

 

2.事務所

 私が勁文社に入社したのは昭和37年4月、創業2年目のことだが、当時の事務所は中野区文園町の住宅街にあった加納勲社長の自宅の六畳か八畳の応接間を改造した部屋に事務机を入れた狭いところで、そこに5人が常勤するというものであった。

 当時はフォノシートの成長期であり、特に石原裕次郎、赤木圭一郎などがヒットし、たちまち手狭になってきたので、昭和37年7月、国電中野駅から徒歩15分ほどの、昭和通りに面した木造2階建て上下15坪ほどの物件を賃借し、1階を倉庫、2階を事務所にした。また、この頃に男子編集部員、女子事務員などが入社、社員が7〜8人になった。

 その後、順調に業績が推移し、ここも手狭となり昭和40年4月、新宿駅西口から5分ほどの新宿区柏木にあった7階建てビルのワンフロアー4〜50坪の、4階と地下室を借り地下を倉庫にした。ここには昭和56年春先、中野区中野坂上に自社ビルを新築して移転するまでの16年間事務所を構えていた。

 

3.人

 私が入社したときのメンバーは、編集の渡辺邦夫、営業のE、元日本グラモフォンの西野智博、元講談社のK、元損害保険会社の経理担当Tなどがおり、皆20代後半から30代前半であった。

 後に発行人となる石田信人(故人)は、キングレコードを中心に録音スタジオで活動するスタジオミュージシャンで、当時40代の腕の良いフルート奏者であった。渡辺邦夫、営業のEは昭和38年から39年にかけて退社し、代わりに新卒の大槻晧洋などが入社したのもこの頃で、加納、石田を除けば平均年齢は20代で、新宿に事務所が移転してからは、若い人の入社が続いたので平均年齢は下がり続けた記憶がある。といっても社員すべてで16〜7人ではなかったかと思う。

 

4.創業

 加納勲が講談社を退社したのは、フォノシート出版をするためではなく、独立して書籍の出版社を立ち上げることが目的であったようだ。ところがあれこれと企画を練る段階で、新しいメディアとしてフォノシートが浮かび上がって来た。しかし、加納は音楽にはまったくの素人で人脈もなかった。そこで昔、講談社の録音部としてスタートしたキングレコードを紹介してもらい、当時のT文芸部長の手配で石田信人、Oディレクター等と面識を持つようになり協力が得られるようになった。
 

5.仕事

 フォノシート出版までの流れは下記のように行っていた。
* 企画を立てる(映画音楽とかムードミュージック、童謡をやろうなどと曲目の決定)
* 録音をする(音源を持っていなかったので、最初の頃はすべて新たに録音をしなければならなかった)
* 本の編集(映画音楽であれば収録曲目に関連した写真、映画・楽曲の解説原稿依頼、レイアウト、校正、音楽著作権の申請、その他)
* 印刷、製本(外注) 
* 販売部数の決定、取次店との部数交渉、納品
 

6.自社録音

 前述したとおり、音源は一切なかったので、一から企画を立てる毎にすべて新規に録音しなければならなかったが、録音するためには、まず曲目の決定、編曲の依頼、編曲のスコア(総譜)に則したメンバーの手配(ヴァイオリン何名、管楽器何名など)、録音スタジオの手配、など大変な手間と費用がかかったものだ。現在はコンピューターによる音づくりが主流なようだが、当時はすべて生録音、しかも 2チャンネルの一発録りであったから、例えば20名のメンバーのうち一人でも間違えると、また最初から録音し直すという、今から考えると大変非効率な録音ではあった。

 録音スタジオも不足していて、杉並公会堂、新宿厚生年金会館、イイノホールなどをよく使用した。イイノホールで思い出すのは、ある夜中の録音中、コツコツと靴音のようなものが調整室のスピーカーに入ってくる。録音を中止しても聴こえて来る。スタジオの中のミュージシャンは誰一人動いていないのに聴こえてくる。深夜のスタジオ、いささかぞっとしていたが、原因が分かってみれば簡単なことではあった。当時エコーをかけるのには、スタジオの音を一度エコールームに出して、その音を再度マイクで拾って録音するという原始的な方法をとっていたが、そのエコールームに警備員の方が点検に入ったらしい。思えばのどかな時代ではあった。

 

7.第1巻第1号

 第1号の『ユア・ヒット・パレード1』(昭和36年5月1日発行)は、当時文化放送のヒット番組からいただいたタイトルと選曲の良さが時流に乗って良く売れ、再版しようと印刷会社に再版の発注をしたら、印刷会社とのコミュニケーションが悪かったのか、印刷会社がそんなに売れないと思ったのか不明だが、印刷の製版を解版してしまっていて再版不能となり、私が入社した頃でもまだ解決していなかったようだ。
 

8.タレントもの

 勁文社がフォノシート出版社として割合と早い時期に知られるようになったのは、石原裕次郎、赤木圭一郎のシート化を手掛けたことが理由だと思う。

 そうしたタレントものを手掛けるようになったきっかけは、加納夫人の実家が東京・池袋で有力な映画館2館を経営しており、その線で日活映画の宣伝部を紹介され、映画のサウンドトラックは日活映画から、楽曲は日活映画宣伝部からテイチク、日本グラモフォンに話を通し、石原裕次郎、赤木圭一郎の音源の提供を受けることになった。しかし、レコード会社としては楽曲の全コーラスは渡せない、2コーラスまでということで、以後レコード会社音源はすべて2コーラスというのが決まりになった。そこで考えたのが、映画の中の名場面の科白をイントロ、コーラスの間に挿入し、ドラマ仕立てに構成して発売することで、これが読者に受けて販売部数も伸びていった。当時の映画業界はまだまだ全盛期であり、また映画館主の力も強かったようだ。そして映画会社の力も強くレコード会社に無理が効く立場にあったようだ。

 また紹介されて、当時売り出し中の渡辺プロダクションの渡邊美佐副社長にもお世話になり、渡辺プロや美佐氏のご実家であるマナセプロダクションから東芝音楽工業、キングレコード等に話を通してもらい水原弘、ザ・ピーナッツ、倍賞千恵子、植木等、ジェリー藤尾等の歌手をシート化することが出来た。当時、市販の録音媒体としてはレコード盤しかなく、渡辺プロとしては新しいメディアとしての広がりを考えて協力していただけたのだと思う。

 この中で、『植木等と上原ゆかりの童謡集・パパといっしょに』(第58号,昭和38年10月31日発行)、ジェリー藤尾の『センチメンタル・ジェリー』(第54号,昭和38年9月15日発行)は、どちらも勁文社のオリジナル録音で、『パパといっしょに』は小さかった上原ゆかりにお菓子をあげたり、お話ししたり遊びながら、その合間に録音したのだが、植木等も辛抱強く付き合ってくれたものだ。

 ジェリー藤尾は、確か新宿厚生年金会館で録音したと記憶しているが、彼のヒット曲「遠くへ行きたい」に加えて、日本の童謡の名曲を中心に新たに録音し、満足のいく出来上がりではあったのだが、発売直前に東芝音楽工業から「遠くへ行きたい」の録音について権利の侵害になるとのクレームが入った。勁文社としては所属元のマナセプロの了解を得ているとの説明をしたが、東芝側に説明を受け確認の結果、やはり発売は契約上無理とのことになった。マナセプロの担当者も録音盤として発売することへの契約について、いささか不勉強であったと思うのだが、当社もマナセプロの許諾をそのまま受け取り録音したのは軽率であった。しかし、製品は数日中に出来上がり取次店への納入も迫っている。しかも通常より多い初版部数で意気込んでいたのだ。発売できなければ大損害となる。何とか発売させてもらえないか東芝音楽工業のN部長にお願いするしかなかった。結果として「初版のみで再版はしない」、「ペナルティーとして相応の額を支払う」ことで了解していただいた。今ならとてもこうはいかないだろうが、昭和38年当時の業界人には人情味のあるほのぼのとした人が結構いたものだった。

 

9.権利関係

 いずれにしても、フォノシートの出版には欠かせない音源の確保には苦労があった。外国のポピュラー音楽については、著作権料を支払えばほとんどの曲を録音することが出来、カヴァーヴァージョンとして発売出来たが、国内楽曲はそのほとんどの権利がレコード会社に帰属していて、レコード会社の許諾なしではたとえ勁文社で録音しても出版することが出来なかった。企画を立て楽曲を選曲しても曲の権利をクリア出来なければ絵に描いた餅になるわけで、コネを頼りにレコード会社に頭を下げて回ったが、成長しつつあったフォノシートの出版社に簡単に許諾をしてくれるところはなかった。当時の作詞、作曲家はレコード会社と専属契約し、その作品の出版権はレコード会社にあったので、レコード会社のように自社オリジナルの楽曲を持たないフォノシート出版社としては企画に制約があり苦労の種であった。

 例外として中村八大、永六輔など、ごくわずかな作家のみが、現在のように音楽出版社に所属し、著作権料を支払えば誰でも録音・出版することが出来、現在の音楽出版のビジネスモデルの原型が出来つつあったのではないかと思う。

 

10.レコード会社

 日本にレコードが渡来して以来、録音媒体としてはレコード盤しかなく、それを発売するのはレコード会社という図式が永年に亘って続いて来た訳で、そこに新しい媒体としてフォノシートが登場、そこそこに話題となり成長しつつあるとすれば、豊富な音源を保有するレコード会社としても、多少は意識せざるを得なかったのかも知れない。そのうちにレコード会社そのものがフォノシートの出版に乗り出すようになり、勁文社としては企画に対する制約が徐々に強まっていった。

 当時のレコードの流通ルートは、一部レコード卸店経由があったにしろ、基本的にはメーカーから契約レコード店に直販するという流通経路であった。フォノシートの場合は生い立ちが出版社が多いこともあって、東京出版販売(東販)、日本出版販売(日販)、大阪屋など出版取次を経由して全国の書店に販売されていたので、レコード会社としては新しい音楽媒体としてのフォノシートと、書店ルートへの注目があって直接フォノシート出版に踏み切ったのかも知れない。