株式会社越野商会


 レコード店へのシートの流通は,レコードとは異なる「シート卸」ルートが主力でした.今回は,シート卸大手,越野商会において営業部門の責任者を務められた小此木二郎様に,シート卸を軸としてフォノシート出版全般をご解説頂きました.


 
 

1.「シート卸」が現れた経緯をお聞かせ下さい

 シートが「音の出る雑誌」から、昭和36、7年頃を境にレコード盤と同様の音楽ものが中心になるにしたがって、企画の幅も広がりポピュラー音楽のカバーバージョンから童謡まで多彩な企画が各社から発売され、音楽ものとなればやはり書店より専門店であるレコード店の販売を考えるのが必然的な流れであったわけです。
 特に、この頃音楽ものシートの販売が好調なことを無視できず、日本ビクター(36年12月〜)、日本コロムビア(37年7月〜)、テイチク(37年12月〜)、日本クラウン(39年6月〜)等のレコード会社も参入します。このタイミングに、元テイチク営業部員の岡田氏が東京・高田馬場にシートの卸を専門とする日本レコードシート販売を設立し、関東を中心としたレコード店ルートの販売を開始、関西では、当時「クロネコ」ブランドのレコード針などレコード関連用品の販売で関西地区を中心に中国・四国・九州までのレコード店と取引のあった越野商会が各社からの要望を受け販売に乗り出しました。
 当時のレコードの販売ルートは、各社が各地に営業所を設けレコード店(レコード商組合加盟店が中心)と契約し直接販売していました。これ以外のレコード店には飯原星光堂、大蓄、ライラック商事等を卸会社として販売していましたが各レコード会社ともシートに関しては自社販売ルートを使わずに、出版社系のシートと同じ販売ルートを使っていました。効率を考えればこれがベターであったのだと思います。
 シートはこうした卸出現以前からレコード店でも販売されていましたが、それには書店との兼業店、また新しいものに前向きの一部のレコード店が東販などの取次ぎから仕入れていたり、レコード業界に個人のブローカーのような人たちがいて、この人たちが特定のレコード店を相手にシート出版社から直接仕入れ販売していたケースがあります。この他、レコード店ルートの販売で特異な存在だったのが「コダマプレス」で、ここはレコードメーカーがレコード店にレコードを直接販売するように、大阪に営業所を設置しレコード店にシートを直接販売していました。
 

2.書店ルート(取次),レコード店ルート(シート卸)への配本部数比は?

 例えば、勁文社の場合、38年頃よりレコードルートとの取引が開始されたと記憶していますが、レコードルートへの平均的な配本数は全体の20〜30%位で、企画内容によって多少の変動があったと思います。
 

3.越野商会,日本レコードシート販売以外にもシート卸はあったのでしょうか?

 レコードメーカーが自社歌手のシートを発売しだした初期に、前記のレコード卸会社がほんの一時期扱ったかもしれませんが、レコード業界においてシートを本格的に扱っていたのは、越野商会、日本レコードシートを除いてはありません。
 なおレコードルートとは別に、当時台頭しつつあったスーパーマーケットにルートを持っていた東日本書籍(東京・駒込・代表 藤原氏)がある程度の量を販売していました。
 

4.当時の越野商会の概要,組織構成,取引先などをお聞かせ下さい

 社長は創業者であり、人望、経営力に優れ、また資金的にも豊富でしたので、仕入先、および販売先等業界での信用力は高く、売上額は最盛期で月商数千万円でした。シートの販売は最盛期で、業務全体の80%ほどを占めていましたが、ポータブル電蓄などを集中的に販売したときなどはその比率に変動がありました。
 規模としては社長以下当時30名足らずの会社であり,組織というほどではありませんでしたが、経理部門、営業部門に分かれ、営業部門の中は販売、商品管理および発送とに分かれ、販売に属する営業員が十数名で各地区を担当していました。
 取引レコード店は大阪ミヤコ本店、大阪大月レコード他、各地区有力店を中心に約1,200店、取引の多かった版元はビクター出版、日本コロムビア、日本クラウン、テイチク、勁文社、朝日ソノラマ、サンミュージック他です。
 

5.フォノシート出版の衰退と位置付け

 昭和34年「音の出る雑誌」として初期の一時期好調だったものが、企画と読者とのずれから低迷。音楽もの、テレビアニメの主題歌等の企画に活路を見出し37〜40年頃に全盛を迎えたシートでしたが、41年頃より急速に低調となり42年には音楽シートの発売はなくなります。
 このシート衰退の原因は高度経済成長にリンクした必然でした。昭和36、7年当時、電蓄(電気蓄音機=今のCDプレーヤー?)の保有率も低く、今から見るとおもちゃのようなポータブルタイプがよく売れていた時代、シングルレコード盤(両面2曲)2百数十円、LP盤(12曲)千数百円の時代に、14曲収録のシートがブックがついていて380円とか420円くらいで発売したのですから、音質もレコード盤と比較すればノイズが多かったけれど、低価格でたくさんの音楽を楽しめるものとして、高価なレコードの代替品としての一定の役割を果たし、取り敢えず満足してもらっていたものだと思います。経済の低迷が長引けば、もう数年はシートの寿命は延びたかもしれませんが、経済の面から見れば矛盾した話で、シートに携わった人たちにすればなにかとご苦労があったと思いますが、シートが消えてゆくような社会情勢は幸せなことだったのかもしれません。

 高度成長の入り口にあった時代の変化は速く、所得も増えつつあり高価なステレオプレーヤーも売れ出して来ており、購入者の中にはシートをかけるとレコード針が傷むなどという人もいて、早々とシートの取り扱いを取り止めるレコード店も現れ、41年頃よりシートの販売数量は急速に落ち込みました。
 越野商会としても従来の仕入数量を抑え、メーカーには不要なシートの返品量が増加するという卸(中間業者)の立場で辛いものがありました。42年に入ると、シートメーカーの倒産、他業態への転換が相次ぎ、取引先ではサンミュージック、他1社が倒産、レコードメーカーもシートの発売を中止して行きます。越野商会はレコードメーカー等シートの販売を中止した会社の要望で、シートの在庫品を買い受け、一部を前記東日本書籍を経由してスーパーマーケット店頭での処分売りに出しました。

 その頃アメリカで開発されたカーステレオテープが日本でも話題になりつつあり、ニッポン放送の子会社ポニー(現・ポニーキャニオン)が日本で販売を始め、引き続き、文化放送の子会社フジサウンド(のちのアポロン音楽工業)、音源を所有するレコード各社が参入、音楽業界の新しいメディアとして一気に勢力を伸ばし始めます。まさに、数年前フォノシートが印刷媒体と音声・音楽の新しい媒体としてもてはやされた以上のスケールと勢いでカーステレオテープが世の中に浸透し始めます。
 越野商会はこのカーステレオテープに早くから着目し、ポニー、フジサウンドと契約、従来の販路にカーステレオテープを販売して行きました。この時期はシートの終戦処理、新商品の販売対策等、気持ち的にも身体的にもかなり忙しかったと記憶しています。

 シートの終焉は、レコードの代替品機能の役目を終えたことに大きな一因があると思いますが、そうとばかり言えないのかなとの思いもします。なぜなら、その後の音楽媒体の変遷を見るとき、フォノシートもその中の一齣であったと思えるからです。世間の話題を席巻した感のあるカーステレオテープも、ごく初期には4トラックがあり、すぐに8トラックが主力となり、その後わずか数年で録音機能を備えたカセットテープに取って代わられ、このタイプがカーステレオに限らず、ウォークマンのヒットもあって音楽媒体としての大きな位置を占めて行ったこと、その後CDが出現、百年の歴史を持つレコード盤もいまや骨董品に近い状態になるという現状から見ると、シートも一概に「代替品だった」ではなく「音楽媒体が進歩していく中の過程にあった媒体であった」との見方も出来るのではないかとも思います。