コダマプレス株式会社


 コダマプレスの第二代編集長である来嶋靖生様に,社の概要,部署構成,経営状態の推移をご詳説頂きました.今回の質問には,直接のご担当ではない事務項目が多く含まれましたが,丁寧にご案内下さいましたこと,とくに御礼申し上げます.


 

1.社名

 由来を明文で記したものはないと思うが、田中※1と伊部※2の合議で決めたはず。音の出る雑誌の「音」からエコー、木霊を連想し、そこから「KODAMA」のネーミングが決まり、社名としては英文はまずい(当時の感覚)ので「コダマ」とカタカナにし、それにPRESSを加えた、と承知している。
 

2.事業内容は,「フォノシート出版」「芸能プロダクション業務」「レコード製作」「コミクス・新書・カード出版」のみでしょうか?

 芸能プロダクション業務は、コダマプロダクションという別会社による別組織。同じ社屋内だが、建前としてはコダマプレスの業務とは言えない。他に「受注によるシートの委託製作」(6.参照)がある。
 

3.収録スタジオ・技術スタッフ

 自社スタジオはなし。すべて貸スタジオを時間借りしてすべての録音を行なっていた。使用スタジオは次の通り。

・小編成のもの
 国際ラジオセンター(KRC)
 アバコスタジオ(はじめ青山、のち麻布)
 麹町スタジオ
 ラジオ短波スタジオ
 草月会館
 東京文化会館小ホール

・大編成のもの(ステレオ録音)
 杉並公会堂
 文京公会堂
 目黒公会堂
 TBSスタジオ
 厚生年金会館

 初期の頃もっとも多く使用したのはKRC、ついで麹町スタジオであった が、やがてステレオ録音が主流になると、当社からソニーのCP12、CP 1など、当時としては最新の機材を持ち込んで録音せざるを得ず、音響効果 の面から大ホールを使用することが多くなった。当時は上記の公会堂がまだ 新しく、杉並、文京、厚生年金などは人気が高く、ホールがつねに予約一杯 で、その間隙を縫っての借用であった。
 録音の技術についてはNHKの技術者に時間外に匿名で指導を受けた。ま た録音の際のミキサーもNHKや民間放送のミキサーに時間外のアルバイト として指導してもらった。自社でステレオ録音の機材を持ち、それを持ち込 んで録音するということは他社には例がなかったらしく、評判にもなり、シ ートの委託製作ではかなり有利に作用した。
 

4.地方営業所

 年月日は正確には記憶していないが、昭和38年頃、大阪市東成区に出張所を設け、二人の社員を置いて、レコード店や書店を巡回、販売促進を図った。二年間ぐらいあったかと思う。本社の経営逼迫とともに閉鎖。
 

5.広告活動

 35年初頭、創業間もなく、コダマがもっとも活況を呈していた頃、出来たばかりの東京タワーの構内に売店を設けて当社の出版物を販売していた。当初は地方の客の東京みやげとして好成績であったらしい。(実数は不明)35年末で閉鎖か?


※1 田中京之介(大正12年2月4日〜平成2年12月29日).コダマプレス代表取締役専務,全刊行物の発行人(一部,編集兼発行人).兄総一郎が有斐閣社長江草四郎の友人であった縁で,22年有斐閣入店.鈴木善一郎,新川正美らとともに「六法全書」の復刊(23年6月15日,編集委員代表我妻栄,宮沢俊義)にあたり,理系(採鉱学)出身の編集者として,写真植字,無線綴じといった技術を積極的に導入,以後,各年の六法,実用法律雑誌「ジュリスト」(27年1月1日創刊,同上)の編集兼発行人などを務め,32年5月より取締役.来嶋の大連一中の先輩でもある.

※2 伊部利秋(大正15年11月4日〜平成3年5月30日).コダマプレスの初代編集長,のち常務取締役編集部長.27年有斐閣入社.六法編集室所属.34年コダマプレスへ出向.
 局の企画としてのコダマ特集番組はラジオ関東、日本短波などで行なわれたが、当社提供のテレビ、ラジオ番組名などを含め、担当外のため詳細不明。またレコード製作を開始した時、浅草常磐座で一週間、コダマレコード発足記念興行を行なった。菅原都々子さんに友情出演してもらった。この企画の進行については、今流行歌関係の評論家として活躍しているKI氏(当時ニッポン放送ディレクター)の指導と尽力を得た。
 
 挟み込みの刊行案内には「ミッドナイトジャズ」(ラジオ関東,火・木・日曜夜0:30)新聞の新刊広告には 「芸能ハイライト」(フジテレビ,火曜夜10:45), SKDの「エイトピーチェスショウ」(フジテレビ.水曜夜10:45)がKODAMA提供とある.

6.受注制作

 受注制作はかなり積極的に各方面にはたらきかけ、ある程度の成果をあげ た。クチコミや小規模のDMなどで、地 方市町村の民謡や市歌、学校の卒業記念シート、会社の社員教育用シート、 流行歌手志望者のプレゼン用レコードなど、当社保有の音楽を利用するもの もあれば、台本、録音から本やアルバムの制作まで一切行なうこともあった。 担当外のため、金額、枚数など営業上の資料は私の手元にはない。プレスは、 シートもレコードもともにアテネレコード※3に発注することが多かった。
 


※3 アテネレコード工業.33年レコードのプレス会社として創業,35年から自社設計高速シートプレス機によるフォノシート製造を開始,日本ビクターの定期受注をはじめ,多くの版元にシートを供給した業界大手.

7.関係の深かった映画制作・配給会社

 笹井※4がすべて担当していたので、詳細不明。しかし日活、東宝、東映、松竹など国内はもちろん、東和など外国関係の社ともまんべんなく交渉はあったと思う。コダマ本誌15号から、表紙に岩下志麻、吉永小百合、松原智恵子らが相次いで登場するのは彼と映画会社宣伝部との話し合いで決まったこと。当時は宣伝部のほうが積極的に「この新人を表紙にしてくれ」などという希望が出され、それに乗って行なわれていた。
 


※4 笹井修.35年入社,映画音楽,ポピュラー系を担当し,40年より編集長.

8.部署の構成,配属人員,および,経営状態の推移

・準備段階
 準備段階では、有斐閣の社内事情や企画秘密を考慮して、34年春頃から神 田の山の上ホテルの一室を長期契約で借り、そこを創刊準備室とした。当初 は田中と伊部のほかに六法編集室のY※5が二人の下で原稿依頼に走って いた。六月頃、来嶋靖生が呼ばれ、写真取材と、集まった原稿の誌面割付と を命じられた。当時は、週刊誌や女性誌は別として、普通の書籍出版社(と くに有斐閣のような古い出版社)では、現在のようなレイアウトマンとか誌面デザイ ナーといった概念も職種もなく、本の装幀はデザイナーに依頼するが、本文 のレイアウトは編集者が行なう、というのが通念であった。
 




※5 31年有斐閣入社.
・創刊前後(〜34年11月〜)
 やがて創刊月が決まり、そこへ向かって突進することになると、事務所が 必要となり、34年 9月(推定)から、神田美土代町の小さなビル(螺旋階段 の三階だが、2室で10坪に満たぬところ)に移転した。メンバーは田中、伊 部、来嶋、Y、経理のOの五人であった。録音は田中と伊部、 活字原稿はY、誌面編集は来嶋という大まかな態勢であった。
 11月 8日、何とか創刊に漕ぎ着けた。発売前から大小さまざまの取次(販 売会社)が社に来たり、電話があったりして、配本部数を多くせよと迫る。 実はそれまで、資材や販売は有斐閣に依存してきたが、有斐閣でもこの企画 については部長クラスしか知らない。一般社員はノータッチであった。「本 社では知らないといってますからこちらで」と言われる。急遽本社から販売 の伝票を貰って来て、追加注文の伝票は来嶋が処理することになる。また資 材面では、創刊号の用紙の発注は本社の部長が手配してくれたが、第二号か らはこちらでということになり、これも背負うことになる。印刷製本の進行 は伊部が担当してくれたが、そのうちにとうとう来嶋がパンク状態となる。 そこで12月から編集に読売出版部にいたIが入社、「KODAMA」 は来嶋、「AAA」はIと分担を決め、いくらか凌ぎはつくようになった。
 
 創業当時、社長は江草忠允※6、専務田中、取締役には、本社の部長が2、3人入っていたはず。編集長は伊部。
 
※6 有斐閣第3代社長江草四郎の長男,のちの第4代社長.32年5月より非常任取締役.34年3月,第一(三井)物産を退職,有斐閣へ.
・1年目(35年)
 創刊号の初刷は「KODAMA」21,000、「AAA」15,000だったと記憶 する。追加追加で「KODAMA」はのべ5万、「AAA」は3万くらいにな ったかと記憶する。第3号からいきなり「KODAMA」は5万を刷るように なったが、これが読み誤りで、後々の命取りとなる。
 
 初回、二回の好成績で仕事もふえ、体制整備などさまざまな理由から事務 所が銀座8丁目5 山田ビルに移転する。多分35年の年明け早々だったと思う が、あるいは34年の12月だったかもしれない※7。間もなく編集部に新卒見込みのTが入社、また学生アルバイトでHを入れた。また新聞広 告で社員を公募、4月から編集に笹井修、他 1名、経理にW、営業に女子 1名が入社、うち笹井のみは怪我のため7月から参加した。
 創刊後間もなく、読者の声として、やはり音楽ものが好まれること、つま り反復して聴くのはニュースやドラマよりも音楽だということが明らかとな り、コダマ本誌はさておき、別冊コダマを次々に刊行することが方向づけら れた。コダマ童謡集、唱歌集、日本民謡集、コーラス集などを次々に出した が、圧倒的に好成績だったのは童謡と日本民謡であった。しかし一方、コダ マ本誌とAAAは凋落の一途を辿った。が、返本が次々にくる状況を、社の 幹部は把握していたのかどうか(このあたりは今でも不思議)。35年夏から問 題が顕在化した。社員の私たちには、何の説明もなかった。だが夏の終わり 頃から幹部二人が日々慌ただしく出入りし、席に不在のことが多くなった。 本誌やAAAの成績がよくないことは知らされ、経費の節減と規模の縮小は 命じられたが、社が傾くほどとは思っていなかったから、やはり私も呑気だ った。
 
※7 発行所表示は,本誌第3号(35年1月8日発行)までは中野,AAA第2号(35年1月25日発行)より銀座.
・2年目(36年)から
 35年11月末、当分の間、編集部は一切の生産活動を中止、債権者会議の動向を 待つこと、と上司から指示があった。12月に入って、男性社員は全員倉庫に 行き、返本の整理に当ることになった。有斐閣の倉庫にめちゃめちゃに積ん である返本の山を、新たに借りた荻窪の倉庫へと運ぶ、トラック何十台分も の量で、何日もかかって整理した。
 
 債権者会議の最終結果は、文書では見ていないが、コダマプレスは有斐閣 から分離し、独立して業務を再開すること、未払いの債務は一部有斐閣が負 担したが、大半は債権破棄してもらったのではないか。詳細は有斐閣の経理 か、田中、伊部でなくてはわからない。社員の大半は解雇。一部再就職を斡 旋されたものもいる。来嶋自身は出向解除、本社へ戻ることを希望したが、 伊部に強く懇願説得されて残ることになった。田中、伊部、来嶋、笹井、W、Hの 6人のみで中野区本町通りへ事務所を移し、36年1月から業務が 再開されることになった。(KODAMA14号※8が再開第一号)
 再開後、これまで無防備状態であった営業活動に力をいれることとし、元 日本評論社営業部長の桑原氏を迎え入れ、さらに営業部員を男女合わせ 3名 入れ、また編集に女子 1名、経理に男子 1名を入れ、独立会社としての陣容 を整えた。この時から田中が代表取締役専務(社長空席)、伊部を常務取締 役編集部長とし、来嶋編集長、桑原営業部長という態勢ができた。
 
※8 36年4月8日発行.この号から巻末に,「読者モニター」や「シートの委託製作」のお知らせが掲載される.
・その後
 社員はその後増減があったが、39年頃は編集部員 8名、営業部員 6名、業務部員 2名ぐらいであったと思う。
 来嶋は39年秋、河出書房からレコード企画要員として入社の依頼があり、40年3月退社、その後は笹井が編集長となった。会社としての経営状態は38年頃から次第に思わしくなく、42年6月に倒産(このあたりは不正確)した。