株式会社ミュージック・グラフ


 今回は,ミュージック・グラフ,および,ふらんす書房の創業者,社長,現代芸術社の第二代編集長である今井恒雄様に,各社の概要,業務,企画などをご教示頂きました.


 

1.現代芸術社時代

 私は昭和35年に大学を卒業し、双葉社の記者となりましたが、その頃は人の出入りが結構多く、私も一年ほどで退社、現代芸術社に移りました。大学時代に朝日ソノラマが創刊され、フォノシートには関心を持っていましたので、普通に新聞の求人広告を見て受けたわけです。

 当時の事務所は四谷にあり、私が入る前は社員4〜5人の規模、私と同時入社は3人でした。入社時の(初代)編集長は篠原氏、音源制作は顧問格の谷口又士氏とディレクターの佐藤氏のもと、円滑に行われていました。谷口氏はその道では知られた方で南里文雄とホット・ペッパーズの一員、トロンボーン奏者だったと記憶しています。


 事務所が永田町に移転したあとは、編集面の指揮はすべて私が執っていました。私と共に独立することになる金山彰夫の入社もその頃で、編集部員は金山以下4名ほどでした。『若い音楽』(※1)での守屋浩、島倉千代子の座談会などは、双葉社時代にやった多くの芸能人のインタビュー、グラビア撮影などの経験が生きた仕事で、カメラマンは両社ともすべて斉藤政秋が同道していました。
 

 


※1 『音の出る月刊誌・若い音楽・YOUR HIT PARADE』.'61年11月創刊号『ロック特集』から'64年1月号『一九六四年のヒットパレード』まで刊行.シート4〜6枚.創刊から約1年間は有名実演家の吹き込み,最新映画のサウンド・トラック音源,スターのインタビュー・座談会記事が特徴.島倉千代子,守屋浩の座談会「正月はたのし」の掲載は'62年1月号.

2.ミュージック・グラフの設立経緯をお聞かせください

 これといって特別な理由はなく、「面白いから、自分でやってみるか」といったら金山が「いっしょにやります」と答えたので独立したみたいなものです。創業の年、昭和38年は出版社系シートの低迷期と後にいわれているようですが、そんな意識は全くありませんでした。もっともまだ20代の若僧でしたので、情勢分析なんて出来なかったのだと思います。また、私の結婚の仲人までやっていただいた長嶋武彦社長に後足で砂をかけるような結果となりましたが、心よく送り出してくれました。
 

3.社の概要,スタッフ

 最初の事務所は渋谷区宇田川町のゴールデン・ビルにあり、資本金は100万円、私が代表取締役社長で、設立資金は友人、知人からの借入、初年の売上は3500万円でした。

 創業時のスタッフには、現代芸術社で部下だった金山彰夫、ニッポン・エコー(※2)の社員だった高倉裕、フリーカメラマンの斉藤政秋が居り、金山は編集代表となりましたが、40年に独立(6.を参照)。斉藤は私の双葉社時代からの専属、誌面や表紙にある来日アーティストの特写もすべて彼によるもので、後に『歴史読本』の専属となり、城郭(日本の名城)カメラマンとして一家を成しました。著書もあるはずです。高倉は、その後、東映で人気女優のマネージャーとなり、音楽監督もやったと思います。


※2 フォノシート製作会社.ミュージック・グラフをはじめ,現代芸術社,'62年以降の有信堂マスプレス,サン出版社,ビックエムレコードなどのシートを製作.工場長は元日本コロムビアの大隅太作.
 また、双葉社時代の先輩で、ミュージック・グラフの後期に私が引っ張り編集長となる加藤禮子はエルム新社までつき合ってくれました。かつて木馬座に所属し、ミュージック・グラフ新社で『NHKテレビのおうた』など、かすや昌宏★影絵ファンタジーシリーズを企画した滝沢明王は早々に退社、サン企画を創業して、シート出版を始めました。
 

4.企画

 『ミュージック・グラフ』(※3)創刊号、シート4枚入り『夢のヒット・パレード』から、ポピュラー音楽のヒット曲のカバーを軸とし、若者向けの洋楽に企画を絞ったのは、私たちがみんな若く、今と違ってほとんどの企業の商品の対象が若者だった時代の必然でした。その後、ポピュラーからテレビマンガに移行したのも、やはり時代の流れでしょうか。


※3 商号と同名の本誌.'63年9月創刊号(品番なし)から66号『ヒット・パレード・トップ8』(SMG-4008,'66年4月)まで刊行.創刊号の「M・Gルーム」と奥付

 なお、私の創案で、『ミュージック・グラフ』には、シート10枚、20曲入りで680円の『別冊』(※4)があり、アルバムのような存在といえば聞こえはよいのですが、その実は、返本のシートを組み合わせた商品でした。いま思えば面目次第もございません。
 

※4 別冊ミュージック・グラフ1『夢のトップ20』(MG-6001,'64年4月)から11号『エレキギター・トップ20』(MG-6024,'66年)まで刊行.

5.業務

 エルムになってからもそうですが、みんな私のワンマン会社でしたので、私はすべての業務に関わっていました。

 演奏者、歌手などの手配は高倉でしたが、吹き込みにもすべて立ち会いました。当時はちょうど日本でもポピュラー音楽の創生期で、セミプロのような若手シンガー、演奏家も多くいましたので、音源制作で苦労した記憶はありません。収録スタジオは当時青山にあったKRC(国際ラジオセンター)がほとんどだったと思います。なお、ステレオ録音(※5)になってからのオーケストラの指揮、編曲はすべて岩窪ささをさんにお願いしました。


※5 初のステレオ両面シートは,ミュージック・グラフ41『家庭名曲20選』(SMG-6001,'65年10月).演奏/東京室内管弦楽団,指揮/岩窪ささを.エルム時代に亘って繰り返し使用された音源の一つ.
 ただ、外国曲の権利関係は複雑でした。現在のようにすべての楽曲がJASRACのもとに統轄されていたわけではなく、特に新しい外国のヒット曲は、まだ音楽出版社が個々に直接権利を買いとって日本での使用料を徴収していた時代です。使用する曲は、その都度、フォルスター事務所、BIEMなどの権利者と交渉して許諾をもらったものです。(※6)


※6 初のビートルズカバーは,ミュージック・グラフ8『輝くヒット・パレード』(品番なし,'64年4月).唄/阿部芳美,岡昌明,演奏/鈴木弘二とクリスタル・エコーズ.
 配本の割合は出版取次(書店)とシート卸(レコード店)で7:3くらいだったと思います。トーハン、日販、大阪屋、栗田、中央社、協和、日教販と取次大手7社にはすべて入れていたと思いますが、日教販はエルムになってからの取引かもわかりません。ほかは、越野商会と、日本レコードシート販売(日レ販)です。日レ販の重役だった石村匡正氏とは、同社の倒産後、朝日ソノラマを大株主として、私どもの若干の出資も加えて、(株)ワールド・ミュージック・サービス(※7)を設立、エルム時代まで長い交誼を続けました。
 

※7 ワールド・レコード名義でエルムが制作した『西部劇映画主題曲集』(W-001に始まる14曲,950円の30cmLPレコード『950 POPULAR SERIES』などの発売元.

6.映画と音楽社

 これは金山が退社して創業した全くの別会社です。ミュージック・グラフの改組の少しあとに『ティーンビート』(※8)も休刊しましたが、それもうちとは無関係です。ただ、当時大久保の桜田ビルにあったミュージック・グラフの事務所の一部を貸すなど、友好関係は続いていたので、お互いに広告は載せあったかも知れません。
 

※8 '65年9月号から'68年2月号まで刊行.付録の16cmシートには,来日ミュージシャンの会見やヒット曲の伴奏を収録.ミュージック・グラフの新宿区戸塚町への移転により,'67年には,発行元の(株)映画と音楽社も,百人町2-130(桜田ビル)から同2-117へ移転.

7.ふらんす書房と『日本春歌カード』

 41年、ふらんす書房を設立し、シート3枚入りの『日本春歌カード』(※9)を発行しました。これは当時話題だった三星社書房の『医学カード』シリーズのスタイル(写真と解説のカード)、光文社のKAPPA BOOKS『日本春歌考』の題材、そしてシートを融合させた企画です。『週刊大衆』をはじめ、『週刊新潮』、『週刊読売』などマスコミ各紙(誌)で紹介され、15万部のベストセラーとなりました。

 発行元を別事務所にしたのは従来の音楽ものではなく、書籍に近いものを出そうという意図からです。42年に入り、組織を株式会社としましたが、同名の出版社が、すでに取次の口座にあり、取次の指示で混同を避けるため、表紙だけはアタマに東京新宿とつけました。なお、商号の「ふらんす」は、単に私がフランス、特にパリが大好きという理由によるものです。

 

※9 『日本春歌カード』(MGC-6001,'66年9月15日初版).カード24+24枚,両面シート3枚.三業地の芸者吹き込みによる宴会トラの巻.全20曲中5曲は『エッチなうた』(ELM-R5505,'69年)に使用.

8.怪獣ブームの終焉

 また41年の暮れ、ミュージック・グラフから主題歌入りシートつき『きりぬき大怪獣』(※10)を発行、これも私の創案による切り抜いて遊ぶ商品で、20万部のベストセラーとなりました。以降、音楽ものに代わり、テレビマンガものが出版の中心になりましたが、第一次怪獣ブームの終焉に会い、返品が増大、42年11月、ミュージック・グラフは倒産します。
 

※10 『ウルトラマン・きりぬき大怪獣』(MG-3001,'66年12月1日初版).全身きりぬき大怪獣20匹+ウルトラマン3ポーズ+科特隊装備,歌+ドラマ入りシート1枚.ドラマ構成/円谷特技プロダクション,録音/ポニー・サウンド・プロダクション.