ソノレコード株式会社


 今回は,ソノレコードにおける企画・編集の責任者であった斎藤駿様に,同社の草創期の模様,および,シート出版から通信販売・通信教育に至った経緯をご教示頂きました.


 

1.現代芸術協会(1959年)

 私は昭和34年に5年かかって「大学は出たけれど」、職はなく、業界誌のアルバイトをしていたときに、『テレビドラマ』編集部員募集の新聞広告を見て応募、入社しました。
 そのときは創刊号(昭和34年9月号)をつくっていたときで、次号からの仕事に参加しました。発行元の現代芸術協会は編集長の長嶋武彦氏がつくったもので、次号からは山本一哉氏がオーナー(発行人)になってくれたため、私を採用する余裕が出たと聞いています。事務所は歌舞伎町の東金ビルにあり、長嶋氏、井田一衛氏、そして私の3人がメンバーでした。
 

2.ソノレコード(1960年)

 その後間もなく、山本氏が音の出る印刷物の製造元として、ソノレコード(株)を設立、新しいスタッフが入ってきたため、『テレビドラマ』編集部は中野北口の元登記所に移りました。あまりに広いため、その後、テレビドラマ研究所を開校し、講師の手配も私が担当しました。また、山本氏はフランスからフォノシートのプレス機を購入しました。
 

3.ソノブックス社(1960年)

 私はライバル誌『シナリオ』の編集長からスカウトされ、待遇面でもそちらのほうが少しよかったので、よし移るぞと決めて、山本氏に辞表をもっていったところ、「注文が少なくて工場が苦戦しているので、朝日ソノラマやコダマのような出版社をつくって工場をフル稼働させたい。好きな企画を自由にやってくれ。」と提案され、給料も好条件を示されたので、私の友人に『テレビドラマ』編集部に入ってもらって残留を決めました。
 『テレビドラマ』時代は企画取材校正の他に取次営業も私が担当していたので、取次5社の窓口は顔なじみ。すぐに新しい出版社の口座をつくってもらえました。社名はソノブックス社と決めました。
 なお、長嶋氏は私が中野を去って間もなくお辞めになり、『テレビドラマ』の編集長は井田氏に。
 

3.『月刊映画音楽』(1961年)

 再び歌舞伎町の東金ビルに戻った私は、単発でフォノシートの出版物をつくっていったらすぐ企画が行きづまると考え、映画の主題曲ばかりをのせる『月刊映画音楽』を企画しました。「エデンの東」「太陽がいっぱい」「刑事」「道」など、当時は映画音楽花盛りなのに、レコード各社はあまり力を入れていませんでした。取次ルートを使って販売したところ好評で、とくに西部劇を特集した月は即日売切れという書店が続出して『テレビドラマ』の赤字なんか気にしなくてよくなりました。
 『月刊映画音楽』の創刊号(昭和36年4月号)は表紙と目次だけを当時雑誌デザイナーの第一人者だった金森馨氏に依頼。本文ページの割り付けはすべて知人の詩人、菅原克己氏。いかに薄い冊子とはいえ、氏のレイアウトがなければとても月刊化をつづけていくことはムリでした。 21世紀に入って菅原克己ブームがおこり、西田書店から厚い『菅原克己全詩集』が出ていますが、その巻末年表を引用します。
〈 一九六一年 五〇歳
 この年、町図案社を興し映画雑誌のレイアウトなどを手がける。デスクを小森武の事務所(都政調査会)の一角に置かせてもらう。 〉
 私は毎月せっせと都政調査会のビルに通っていたわけですね。菅原氏は終刊号までレイアウトをしてくれていたと記憶しています。
 『月刊映画音楽』が当ったため、歌舞伎町の東金ビルから近くにできた高層の西北ビル(作家の田村泰次郎氏が建てたビル)に移り、中野の『テレビドラマ』スタッフも一緒になりました。  
 

4.フォノシートブーム(1961-62年)

 出版界はフォノシートブームで小出版社から大手の講談社、筑摩書房まで、フォノシート出版物が洪水のように書店にあふれました。フォノシートを抜き取られる(部分万引き)ために、どこもビニール袋でとじて納品していましたが、ビニールはすべりやすいので店頭に平積みするとすぐに崩れてしまいます。その上、どの社も映画音楽とポップスが中心、あとは著作権の切れている民謡、軍歌、クラシックと類似していましたから、すぐに消費者にアキられてしまいました。書店にもアイソをつかされて新刊を出しても店頭に並ぶ前に返品されてしまう状況になりました。
 ソノブックス社も危機に襲われ、倉庫は天井に届くほどの返品の山でまっ暗に。この返品の山はすべて私の責任かと思うと、私の心もまっ暗に。
 返品は取次店で再販できませんから、都内のレコード店に委託で置いてもらうことにして、社員総出で回りましたがあまり売れませんでした。
 

5.シートの通信販売(1963年)

 次に思いついた在庫処分が、『平凡』『明星』でよく目にする、「よりどり見どり4枚たったの200円」というマルベル堂のブロマイド通販広告。さっそく、社員総出で倉庫の『映画音楽』その他から中味のフォノシートを抜き戻して、映画音楽名を一覧表にした「4枚たったの200円」の100%模倣広告をつくりました。
 『平凡』『明星』の附録歌本の表4を買い占めてこの通販広告をのせる。支払いは前払いで切手同封、ここもマルベル堂の模倣、ああ恥ずかしい。でも、これが私の通信販売人生のはじまり。
 大のつく反響で、切手を同封した封筒が毎日どっさり大きな郵便局袋につめられて届くので、切手を換金化するための厚紙切手貼り作業に5〜6人のアルバイトがかかりきり。返品在庫はすぐなくなり、新しく4枚200円用の追加プレスで工場も活性化。生まれて初めて通信販売のパワーを経験した瞬間でした。
 

6.『田崎英会話教室』(1965年)

 しかし、このブームも数年でおしまい。再び工場は閑古鳥。次なる手は……そうだ、これからはテレビの時代だから、テレビで人気のNHKテレビ英会話の田崎清忠氏に通信教育をお願いしよう。
 この通信販売、通信教育の成功が、その後の私の人生を決めました。