株式会社エルム


 今回は,テレビマンガのフォノシート・レコード,児童図書から歴史小説までを出版,また,数百点に及ぶ一般向けレコード・テープを制作したエルムの代表取締役社長である今井恒雄様に,社の概要,商品の変遷などをご教示頂きました.


 

1.ミュージック・グラフ新社

 ミュージック・グラフの倒産から2カ月後の昭和43年1月、債権者たちによって(株)ミュージック・グラフ新社が設立されました。資本金は200万円、代表には海外大手保険会社の日本代理店社長で、当社の経営コンサルタントでもあった大谷勝美氏が就任、専務は私、常務は滝沢明王、編集長は加藤禮子、25名ほどいたスタッフは5名ほどの自主退社以外そのままという体制でした。

 設立趣意は、在庫の販売、取次店からの返品の受け入れ、売掛金の回収による債務の弁済などですが、当時は出版界もおだやかな時代で、版元、取次、書店がひとつの村のように、互いに助け合ったものです。河出書房、筑摩書房、平凡社など、みんな新社を設立して立ち直った版元です。ただ、独立系のフォノシート出版社の中でみると、業態を大きく変えずに活動を継続できたところは僅かでした。事情はそれぞれでしょうが、当社の場合、やはり私の再起しようという強い意志を取次各社や関連業者が支持してくれたことが大きかったかと思います。

 新規の商品は、童謡、唱歌やNHK「うたのえほん」などのシートで、この時期の川田正子さんやうたのおねえさんたちの音源、かすや昌宏氏の影絵は、エルムになってからも定番の素材となりました。

 

2.エルム

 その年の10月、私は代表取締役社長に復帰、商号を(株)エルムに改めました。社長復帰は設立時からの暗黙の了解事項で、商号変更は「ミュージック」の名が出版物の内容にそぐわないと感じたこと、心機一転を期したことが理由です。「エルム」は、学生時代によく歌っていた北大予科の寮歌「都ぞ弥生」の2番の歌詞「雄々しく聳ゆる楡(エルム)の梢」からとりました。なお、E、L、Mを組み合わせたエルムの意匠は私が、ミュージック・グラフの3羽の鳥のマークは金山が考えたものです。

 以降、テレビマンガレコード、シートつき絵本、図鑑、大百科等を出版、フォノシート出版よりもテレビマンガの出版社としての色が濃くなって行きます。
 

3.テレビマンガと本盤レコード

 当社のテレビマンガ商品は、私が中心になって、加藤編集長以下、大学を出たばかりの若手スタッフたちと作り上げたものです。初めの頃はジャケットも全て私がデザインし、それを継承して白地にキャラクターの並ぶレイアウトが当社のカラーとなりました。(第一次)怪獣ブームが終わったとはいえ、ウルトラシリーズは続いており、怪奇・妖怪もの、スポ根ブーム、そして、変身ブーム(第二次怪獣ブーム)と、題材には事欠きませんでした。

 ただし、時代はもはやシートではなく、子供向けといえどやはりレコードだと考え、44年より、シートと並行して本盤レコードを制作、発売しました。まず、大手レコード会社に先がけてテレビマンガ初の4曲入り17cmLPレコード(コンパクト盤)を出し、シリーズ化。もちろんドラマ入りも出しました。とくに3人の息子たちと夢中で観ていた「巨人の星」のダイジェスト盤は、テレビマンガ初の長編ドラマ入り30cmLPレコードとなりました。

 ニッポン・エコー清算後のプレスは、フォノシート、本盤レコードとも、すべて東京電化(株)です。社長、専務が早稲田の先輩ということもあって、同社とはその後親密になり、当社の増資の際には出資もしてもらい、私も若干ですが出資して電化の株主となりました。

 レコードの主な販路は、日レ販倒産後のワールド・ミュージック・サービス、越野商会、西日本ドリーム産業(株)、そして、大手スーパーへは(株)東日本書籍から入れていました。

 なお、新社設立初年の売上は1500万円、次年は3億円でした。

 

4.絵本・レコードからシャツまで

 新宿区柏木富士ビルにあった事務所が手狭となり、45年、中野区野方永田ビルへ移転しました。

 同じ年かその翌年には、出版物やレコードだけでなく、当時若者から圧倒的支持を受けていた(株)ヴァンヂャケットと組み「エルム・ヴァン」のブランドで「怪獣シャツ」を発売しました。その頃はブランドTシャツといえばゴルフ位しかない時代ですから「当たる」と確信して、VANと親しい友人に仲介してもらい実現した企画です。当然書店での衣料品の販売も画期的なことでした。

 これを機にフジテレビでスポット広告(15秒)を開始、代理店は当社の100%子会社(株)エルムエンタープライズ、代表の長尾和幸は(株)産通の元営業部長で、当社の新聞広告などを担当してもらっていた縁でスカウトしました。また、二、三の地方局では「仮面ライダー」を提供、「怪獣えほんのエルム」の知名度は大きく飛躍し、シートつき「怪獣えほん」の発行部数は累計300万部に達しました。

 「怪獣えほん」は文字通りのウルトラマンや怪獣の絵と物語、なぞなぞ等を見開きに配したハードカバーの絵本で、おまけとして「世界の怪獣(恐竜)切手」をつけたものもありました。シートつきにしたのは、当時、キャラクター商品化権は一業種一社が基本でしたので、単なる書籍ではなくシートをつければ別商品という解釈で許諾を得るためです。

 

5.玩具ルート

 44年頃からのシートつき出版物は、書店、レコード店のみではなく、ダイヤブロックで著名な玩具メーカー・卸問屋の(株)河田をはじめ、各地の玩具卸問屋を通じて、全国の玩具店でも大量に販売したもので、そうした玩具ルートを切り開いたのは当社だけだったと思います。

 玩具ルートでは(株)美研が出していた人気商品をマネた「フォノシートつきかみしばい・エルムホーム劇場」、「怪獣シャツ」、ミラーマンの頭の形の小物入れ「ミラーマンキイボックス」、紐を引くとテレビマンガのテーマが流れる「マスコットオルゴール」も販売しました。フジテレビで流していた当社のスポットのひとつで、このミラーマンのボックスをぶら下げて歩く子供は私の二男、三男です。
 

6.一般向けレコード・テープ制作に進出(47年後半)された理由とその実際をお聞かせください

 ひとつにはテレビマンガ主題歌のレパートリーの枯渇、そして、当社が株を保有する卸会社ワールド・ミュージック・サービスの業績の伸長を期してのことですが、最大の理由はやはり回収が早く、資金の回転が楽だったという点です。ご承知のように、出版物は取次店を介した委託販売であり、納品から集金までが6カ月の長期に亘り、しかも、返品という大変厄介な問題がありますので。

 当初のポピュラー、映画音楽、童謡、民謡、軍歌などの音源は、かつてのフォノシートの素材を利用していましたが、大映、テイチクなどからの売り込みも多くあり、そうした外部からの購入音源、また、自社録音のうち歌謡曲のカバーでは有名芸能プロダクションの新人さんを使うこともありました。

 この頃もレコード・テープとも製造はもちろん東京電化です。商品は通常のレコード店のほか、越野商会、東日本書籍を経由して、ダイエー、イトーヨーカ堂などスーパーの催事売場でも多く扱っていたと思います。なお、ワールド・ミュージック・サービスの販売先の50%は新星堂が占めており、一手販売の商品には「新星堂推薦盤」と入った帯をつけました。

 非常に多くのレーベルを用いているのは、販路(ワールド・レコードはワールド・ミュージック・サービス)や音源の購入先(MILLION RECORDは大映インターナショナル)の区別のためと、1カ月に10タイトル以上の新譜を発売した時期もありましたので、ひとつのレーベル内での類似商品の発生を避けたためだと思います(NewAce、CAMEL等)。最終的にはレコード各社を除いたいわゆるマイナーレーベルでは最大規模の制作会社になり、エルム新社時代、さらにその後も問屋からの要望を受けてJACK音楽工業などを作り、レコード・テープ制作を継続しましたが、あとの方は深く関与しておらず、詳細はわかりません。
 

7.書籍,雑誌

 46年からの「きりぬき画報」シリーズは、ミュージック・グラフ時代のベストセラーを変身ブームの怪人などで復活させた企画で、そのまま画報として、切り抜いてちょっとした立体工作として、また、棒をつけて人形劇をするといった楽しみ方もあり、切り取った残りの部分は名鑑などのミニブックになる作りでした。同じ頃には人気作品のミニ百科、大百科、歌本などのシリーズも出しました。こうした商品には、単に見て読んでだけでなく、切ったり貼ったり書いたり塗ったりと、子供の創造力を引き出す要素、クイズやなぞなぞ、ゲームにも知育的な要素を盛り込むことを常に心がけていました。

 定期刊行物では、「怪獣えほん」のふろくの切手の提供元が協力、監修していた年刊の切手カタログがあり、当社はその発売元でした(発行は別会社)。そこの関係筋から話が持ち込まれ、3人のスタッフもうちが引き受けて、48年に創刊したのが『少年切手マガジン』です。

 同じ年に始めた歴史ものの出版は、私の歴史好きによるものですが、翌年には資本金を2000万円に倍増(それまでの毎年の増資額は200万円)、レコード・テープ制作と並行して書籍出版の拡充を図り、毎年コンスタントに歴史ものを中心に単行本を発行、「エルム入門百科」や時代小説などのシリーズも出しました。

 また、51年5月には、新築を購入した自社ビル、北新宿山銀ビルへ移転、在庫管理のため狭山倉庫も新築し、さらに音楽編集スタジオとして小平市に中古ビルを購入しました。

 

8.エルムからエルム新社へ

 ところがテープなどの商品を卸していた問屋の多くが相次いで倒産。当社の受けた不良債権は3億円に達し、その年の11月、エルムは倒産します。倒産時の規模は、資本金2000万円、社員60名、売上年商20億円、負債総額13億円でした。

 同年12月、債権者たちによって当時の常務取締役石原昂を代表にして(株)エルム新社が設立、スタジオとして使っていた小平市天神町の社屋に事務所を置き、在庫本の販売及び新刊の発行を始めましたが、わずか1年ほどで挫折、昭和53年、エルムは消滅しました。

 

9.ミュージック・グラフ,エルムを振り返って

 いまあらためて振り返ってみると、われながらよくまあ色々と作り続けたものとあきれます(笑)。しかし、これらの商品は私がめぐり会った多くの人たちの熱意の所産でもあり、また、テレビマンガの出版社としての当社の業績がその後のアニメブームにつながったものかとも思います。いずれにしても私の青春時代(ちょっと遅いですね)のよき思い出です。